『加害者探求―付録:謝罪文作成ガイド』
作家インタビュー
ク・ジャへ(具滋慧)
『ここは当然、劇場』…劇団名にあるように、世の中の“当然”とされているものに対して疑問を投げかけ、演劇のあり方についても、再考し続けるクジャヘ氏。2014年のセウォル号沈没事件が彼女の劇作を大きく変えた。彼女と話していると印象的なワードが次々と飛び出してくる。彼女自身の中にどんな変化があったのか、頭の中を訪ねてみたいと思う。
大学では国文学専攻ですね。哲学を熱心に勉強したとの記事を読んだのですが、学生生活はどうでしたか?
哲学を勉強したというよりも、国文学をちゃんと勉強しなかったという方が近いと思います。国文学は解釈の方法論が主で、一生懸命レポートを書きましたが、成績は良くなかったですね。哲学の授業では、思考の枠そのものを揺さぶられました。国文学より哲学を好んだ理由は、中世や近代まで遡り、いつの時代も人間が執着している世界観に触れることができた点です。在学中は、演劇を見たり、お酒を飲んだり、サークルでの演劇活動や恋愛、アルバイト、学校から処分警告を受けたりもしました。平凡な学生生活だったと思います。
演劇の道を選んだ理由と劇団発足のきっかけは?
書くことはずっとやっていたのですが、演劇を選んだ特別なきっかけというのはないような気がします。卒業を前に、漠然と自分は就職できないと思いました。2012年に今の劇団名と同じ名前の作品を上演したのですが、演劇の既存の慣習について問いかける作品になりました。その後、同時代の社会的惨事を扱った作品を創作しながら、これまで通用した方法論では演劇を作れないという現実にぶつかり、これについて一緒に悩んだり、演劇の言語について共に考えてくれる仲間が必要だと思い、劇団を作りました。
個人的な観念や美学を表現するウェルメイドな作品よりも、同時代の社会のうねりに身を任せなければと考えられたそうですが?
必ずそうでないといけないとは思っていません。人によって違うので。私の場合、セウォル号沈没事件の前までは、私個人の観念や美学を表現する作品への要求が強かった方だと思います。セウォル号沈没事件後、そういう作品を作るのが難しくなってきました。今、ここでやるにはふさわしくないのではないかという思いが脳裏から離れなくて。つまり、従来のやり方では作れないという意識が生まれたんです。作家は、長い時間をかけて熟成させ、戯曲を書き上げると思われていたとしたら、今は、時代の気流をいち早くキャッチし、短時間で戯曲を書きあげ、俳優と同時代の感覚で創作する方法論も意味があると思ったのです。同時代の社会という波に、ギリギリながらも乗るという考えです。
風刺の対象は個人ではなく構造やシステム?
はい。風刺の対象は常に構造やシステムと考えています。同時に、私自身も風刺の対象に含まなければならないと思っています。そして、そういった構造の中にいる限り抗えないと正当化する個人を扱わねばならないと。個人よりも集団の正体というものを取り上げて、加害者シリーズを作りました。社会のシステムや環境のせいで、どうしようもなかったということを前提に、自分を正当化する言葉を駆使する集団を取り上げました。その集団で得た利益を手放すまいとして、正当化する言葉が生まれ、進化してきたのだと思います。私は主に、言語演劇、議論演劇、概念演劇を創作しています。社会システムの中で起こる加害者集団の言葉を追求していくうちに、彼らを風刺の対象としたのだと思います。言い訳や偽善、集団の力を借りて免罪符を得ようとする人々の言葉について考えました。今は、加害者たちの言葉よりも、当事者たちや彼らの言葉、また、当事者をどのように対象化しようとしているのかということに注目しています。
“公的発話”という言葉が印象的ですが、どういう意味ですか?
演劇は、いくら現実に基づいていると言っても、劇場では、物語性やイリュージョン、そして観客の感情が生まれ、言葉との距離を保つことの難しいジャンルだと思います。目の前で、生きている人間が演じているのに、観客が物語に入り込んでいく現象を不思議に思いました。更にそこに創作者側の美学や演劇的表現が加わり、 “それっぽい芸術”が生まれてしまいます。“公的発話”は、劇中での言葉が、劇場だけに留まらないようにと考えて作られました。簡単に発言したことが大きな意味を持つ可能性もあります。人物の感情の噴出のためではなく、彼らの発した言葉が、劇場の外まで越えていくための戦略です。例えば、二人の人間が会話をする時、それが二人の間に起こる私的な次元の会話にならないように気をつけます。そのためには、目標が必要です。例えば、二人の人間の会話を通じて、これまで否定され続けてきた少数者たちの権利に対する社会的合意を宣言するとか、人物の正当性を持たせるとか、その事件がなぜ起こったかを伝えるなど、目標を明確にして会話します。これが“公的発話”です。演劇で大切なことは会話と言いますよね。物語の中で、表面的には二人の人物の会話のようだけれども、その会話を通じて、問題点を見つめるようになる。人物を演じている俳優の意識の比重を高める方法です。
作品作りで意識していることや舞台で演じる俳優を守るための具体的な方法とは?
最近公演した作品、〈ただ観客だけのためのトゥサンアートセンターストリーミングサービス公演〉では、表面的にはパンデミック時代の演劇をストリーミングで配信することに対する問題定義をしています。しかしそこには、 “自分が演じている人物は、この世界のどこかに存在している”ということが内包されています。これは幻想的な次元の話ではなく、同時代演劇では、人物が作家の想像で創作されたものではないという前提のもと、社会的惨事や被害事実、その被害者を念頭に、演じている俳優の思考を考慮します。基本的に加害の再現シーンは作りません。もし加害や暴力的言葉を使わなければ場合は、その目標が何なのかを俳優と共有して尊重し、そのための仕掛けを考えます。 “これは演劇であり、俳優の発話にはどんな目的があるのか”ということを伝えるための装置やセットなどです。
世界で Metoo運動が広がり、日本でも暴力被害の告発等はありましたが、そこまで大きなうねりにはなりませんでした。残念ながら日本は2020年、ジェンダーギャップ指数121位です。「加害者探求—付録:謝罪文作成ガイド」が日本で上演されることに対してどう思いますか?
まず、とても嬉しく思います。『加害者探求—付録:謝罪文作成ガイド』は、2017年、韓国の演劇界でミートゥー問題が浮上する前に上演されました。当時、韓国演劇界では大きな反響はありませんでした。ただ、私は、何年も見続けてきた、芸術家たちの根本的な自意識や欺瞞、知的虚栄心を取り上げた作品を作りたいと思っていました。純粋芸術だと言って自分たちの暴力を正当化し、自分が属している世界の暴力を黙認し、階級的構造が慢性化した、知的な男性芸術家たちの世界を、“言葉”を駆使して描きました。この“言葉”が、2021年の日本へ大きく働きかけられればと願います。
韓国で、女性として、また女性演劇人として生きてきた私は、韓国のジェンダーに対する意識に、毎日のように失望しています。日本も韓国と同じように男性中心の社会で、階級制が強いと聞いています。この戯曲は、ドラマ的構成ではありませんが、芸術界の周辺で、自分の存在を求めて頑張っている者が芸術界の仲間入りをするという構造を含んでいます。その世界で権力の味を占めた人間が、その世界を拒否することができず、その世界に安住しようとする瞬間を、最も強烈なシーンとして描きました。年配の先生方を問い詰めるというよりも、問題意識を感じながらも、権力の味を知った時の快感や喜び、言葉の暴力、また、それがどのように繰り返されてきたのかに焦点をあてています。これが日本の芸術界にどのように働きかけるのか、問いかけてみたいと思います。
(聞き手=洪明花)