韓国現代戯曲集Vol.6

韓国現代戯曲集6

プロフィール等は2013年時点のものです。
戯曲集の入手については日韓演劇交流センターへお問い合わせください。

掲載作品

海霧

作=金旼貞(キム・ミンジョン)
翻訳=宋美幸

金旼貞

1974年、忠清南道唐津(タンジン)生まれ。幼い頃から作家になる夢を抱き、檀国(タングク)大学国語国文学科を卒業後、韓国芸術総合学校演劇院にて劇作科(芸術専門士課程)を専攻する。在学時に執筆したデビュー作『家族ワルツ』が、第7回国立劇場新作戯曲フェスティバルで当選。実話を基にして書かれた『海霧』は、2007年に劇団演友舞台で公演され、その年の韓国演劇ベスト7に選ばれる。
他の主な作品に『十年後』(劇団小さな神話戯曲公募当選)、『私、ここにいる!』(ソウル演劇祭新作戯曲公募当選)、『吉三峰伝』(ソウル文化財団公演芸術作品公募創作支援事業選定)、『その道で君に会う』、『ミリネ(天の川)』、『君の左手』など。また、国立劇団『オイディプス』、大田文化芸術の殿堂 『人形の家』の脚色も手掛け、2011年の秋には代表作を収録した戯曲集が発刊された。

『海霧』あらすじ

大海原に浮かぶ、一隻の船。その名は、前進号。サヨリ漁を営む前進号の男たちにとって、今日の決断はとても重要だ。度重なる不漁が、彼らをどん底まで追い込んだのだ。次に失敗すれば、船は廃業となる。最後の望みを抱き、前進号は出航する。
船上という閉ざされた空間の中で、男たちは感情を爆発させる。苦楽を共にしてきた仲間。しかし、彼らが起死回生に狙うのは、大漁の夢ではない。船に朝鮮族を乗せ、韓国まで密航させる裏の仕事だ。深まる乗員たちの対立の溝。窮地から抜け出すためとはいえ、これは危ない橋なのだ。不安と葛藤が、際限なく膨らんでいく。
ひっそりと闇の中を進む船を、いつしか、波と風が囲んでいた。雨足が強くなり、そして、濃い霧。海で出会う濃い霧を海霧という。何よりも怖いのはこの霧だ。波にも道があり、風にも道があるが、霧には道がないからだ。やがて、一つの事件が起こり、それさえも霧の中に飲み込まれていく……

白い桜桃

作=裵三植(ペ・サムシク)
翻訳=木村典子

裵三植

1970年、全羅道全州生まれ。ソウル大学人類学科を卒業後、韓国芸術総合学校演劇院劇作科に入学し学ぶ。98年、演劇院在学中に、ブレヒト作『コーカサスの白墨の輪』を翻案し、劇団美醜によって芸術の殿堂で公演される。これを契機に劇作家の道へと進み、99年、『十一月』(ソウル公演芸術祭招聘作)で本格的にデビュー。作と演出を兼ねる劇作家が多いなか、独歩的な作家の道を歩んでいる。07年、大山文学賞戯曲部門、東亜演劇賞戯曲賞(『熱河日記漫歩』)、09年、東亜演劇賞戯曲賞(『白い桜桃』)を受賞。近年の代表作として『銀世界』(10)、『蜂』(11)、『三月の雪』(11)などがある。この他、マダン劇、野田秀樹『赤鬼』、福田善之『壁の中の妖精』、井上ひさし『天保十二年のシェイクスピア』を脚色。現在、同徳女子大学文芸創作科教授。

『白い桜桃』あらすじ

ソウルから東南に150キロ離れた町、ヨンウォル。静かな山里に住み始めた三人の家族と犬。庭園住宅の庭は、土壌を均したばかり。隅っこにレンギョウの古木がひっそりと佇んでいる。世間から忘れられた小説家アサンは大病後、何も書けずにいる。妻であり舞台俳優のヨンランは、ソウルの稽古で忙しい。高校生の娘ジヨンは、林檎ばかり齧っている。秋のある日、寝てばかりの老犬ウォンベクがいなくなってしまう。死の近い老犬がとった行動を契機に、死んだように生きていた人たちの魂に色が灯り始める。
劇作家のペ・サムシクは、十人の登場人物のひとりひとりを花に例えている。私も花好きなので、彼がこの舞台にどんな花を咲かせたいのか、想像することができる。大陸の更地にすっくと立てる俳優たちが集まった。
どうにもならないことに人々が地団駄を踏めば踏む程、地は固まってゆく。
そうして実りは、花を愛でる間もなく訪れようとしていた。

朝鮮刑事ホン・ユンシク

作=成耆雄
翻訳=浮島わたる

成耆雄

劇団「第12言語演劇スタジオ」代表。演出家、劇作家。
1974年、大邱生まれ。延世大学国語国文学科在学中、東京外国語大学に交換留学生として来日。延世大学卒業後、韓国芸術総合学校演劇院演出科に進学、2006年芸術専門士(M・F・A)課程卒業。
2004年『三等兵』(作・演出)を水原・華城演劇祭などで上演して以降、劇作家兼演出家として劇団「第12言語演劇スタジオ」を主宰する。作、演出のかたわら、多数の日本の戯曲を翻訳、演出し、日本の演出家との共同演出による合同公演を行うなど、日本の演劇界との交流にも精力的である。また、日本支配時代を素材とした戯曲も数多く手がけ、人気を博している。
2010年『カガクするココロ―森の奥編』(平田オリザ原作)の脚色、演出にて第四回大韓民国演劇大賞作品賞受賞。

『朝鮮刑事ホン・ユンシク』あらすじ

日本支配下の京城(現ソウル)で実際に起こった事件に着想を得て書かれた戯曲。韓国人と日本人、韓国語と日本語、科学と迷信、現実と幻想が入り乱れて展開される奇怪な事件の顛末記。昭和8年、京城の西大門警察署管内で前代未聞の奇怪極まりない乳児切断頭部遺棄事件が発生した。内地から新たに赴任してきたホン・ユンシクを加え、西大門警察の面々は事件解決に向け動き出す。いったい犯人は誰なのか? 赤ん坊の首を切り落とした目的は何なのか? 上層部の方針で失踪児童を当たっていくが、解決に向かうどころか、事件は連続殺人の様相まで呈してくる。容疑者たちは皆、それぞれに怪しいが決め手を欠き、捜査線上にはついにトッカビ(韓国の妖怪)まで浮かぶ始末……。やがて捜査方法を巡って警察内部の対立は頂点を極め、ついに二手に分かれて赤ん坊の体を探しに墓を暴きに出かけることになる。そして、事件は驚きの終結を迎える……。

無衣島紀行

作=咸世徳(ハム・セドク)
翻訳=石川樹里

咸世徳

1915年、西海岸に面した港町・仁川に生まれ、父親の転勤に伴い、幼少時をやはり港町である木浦で過ごす。仁川商業高等学校在学中から演劇をはじめ、卒業後はソウルの書店で働きながら、劇作家柳致真に師事し、劇作を学ぶ。1936年、「朝鮮文学」誌に『サンホグリ』を発表し登壇。初期は叙情豊かな写実主義戯曲『海燕』、『童僧』、『舞衣島紀行』などを執筆したが、日本の殖民統治下で次第に親日的な作品を書くようになり、日本のアジア侵略を美化した『酋長イザベラ』などを発表した。解放後は一変して社会主義に傾倒し、朝鮮文学家同盟のメンバーとして活動するとともに、『三月一日』、『太白山脈』など、社会主義思想を反映した作品を執筆した。その後、北朝鮮に渡り、朝鮮戦争の際に北朝鮮人民軍の従軍記者として南下、1950年にソウルで戦死したと伝えられる。短い生涯に、翻案・脚色を含め二十余作の戯曲を執筆した。北に渡った作家として韓国では長らく出版が禁止されていたが、1988年に全作品が解禁され、戯曲の完成度の高さが注目を集めるようになった。代表作として『童僧』、『舞衣島紀行』、『太白山脈』などがある。

『舞衣島紀行』解説
石川樹里

日本の植民統治の真っ只中に生まれ、そして朝鮮戦争で北の従軍記者として戦死した劇作家咸世德は、1930年代中盤から1940年代中盤まで、わずか十年余りの活動期間に、柳致真らとともに韓国近代演劇史に大きな足跡を残した。初期は柳致真の影響を受け、リアリズムを基盤とした現実告発劇を執筆した。それらは主に自身の故郷である海辺の町や島を舞台とし、貧しさ故に常に死と直面しなければならない漁民の暮らしを生き生きとした言葉で捉え、浪漫主義的リアリズムの土台を築いたと評価されている。
1940年代に入ると、次第に朝鮮半島の芸術は厳しい検閲と弾圧のもとに置かれるようになり、演劇界では日本の植民政策を美化する作品が盛んに奨励されるようになった。この時期を境に彼の作風は次第に現実描写から、ある意味でセンチメンタルな叙情的リアリズムの色彩を濃くしていく。『海燕』(1940)、『落花岩』(1940)、『エミレエの鐘』(1942)などの作品がこれに属す。また、この時期に書かれた作品の多くが親日的な内容を含み、後日、親日文学人として厳しく糾弾された。
『舞衣島紀行』は咸世德の初期の代表作の一つである。これは1940年9月に文芸誌『朝光』に未完の状態で一幕のみが掲載された『冬漁の終わり』を改題し、翌年四月、『人文評論』誌に掲載された。西海岸に浮かぶ小島の貧しい漁村を舞台に、漁師になって海に出ることを拒む聡明な少年と、息子を漁に出さざるを得ない逼迫した家庭の状況、少年の聡明さを見込んで婿養子にしようとする韓方医の葛藤が描かれる。
この作品の題名には「紀行」とあるが、劇は第三者の目を通して描かれてはおらず、これが「紀行」であると分かるのは、以前、少年の担任であった小学校の教師が久しぶりに舞衣島を訪れ、少年の母に再会し、少年が漁に出て亡くなったことを知ったという内容が語られる幕切れのナレーションによってである。このように荒削りな面も見られるが、登場人物たちの個性や心理が繊細に造形されているだけでなく、近代化を余儀なくされる漁業、日朝修好条規によって1883年に開港した仁川港の様子や日本人が経営する蒲鉾商店、西洋医学の普及により伝統医学が次第に廃れはじめた状況など、植民統治下の当時の世相が垣間見える一方、近海漁業の黄金期だったこの時代の漁場の活気、漁の安全を祈願する巫女の儀式や、神木の前の祠に水を供えて息子の無事を祈る母親の素朴な土着信仰などが描かれているところも興味深い。
執筆当時、この作品が上演されたという記録はなく、1942年から約一年間、日本の前進座に留学していた咸世德は、帰国直後に『舞衣島紀行』を『黄海』という題名で改作し、1943年11月に京城の府民館で開催された第2回国民演劇競演大会に参加した。ここでいう国民演劇とは、内鮮一体のスローガンに基づき、大日本帝国の臣民としてお国のために己を犠牲にする国民意識を植え付けることを目的とした演劇のことである。
二幕劇である『舞衣島紀行』は、天命が船に乗ることを決意するところで終わり、ナレーションによって天命の死が明かされるのに対し、四幕で構成された『黄海』では、天命が実際に船に乗り、嵐に遭遇する場面も登場する。が、死なずに島に戻った天命は、日本海軍に志願兵として入隊することを決意し、彼の決意を称える万歳三唱で劇は幕を閉じるのである。しかもこれが海軍特別志願兵制度が導入された1943年に上演されたのだから、まさしく「国民演劇」である。記録では柳致真の演出となっているが、実際に演出したのは咸世德本人らしい。『舞衣島紀行』から改作された『黄海』を読むと、作家に自分の作品をここまで改作させてしまう日本の植民政策の凄まじさと、そういう時代にめぐり合わせた芸術家の不遇を思わずにはいられない。
そして1945年に第二次世界大戦が終結し、朝鮮半島が植民地統治から解放されると、彼は朝鮮演劇同盟に加入し、社会主義を標榜する作品を書きはじめた。1947年に出版された戯曲集『童僧』の前書きで、彼は「この戯曲集は作家咸世徳の前時代の遺物として保存することにのみ意味がある。私は8月15日を境にこれらの作品世界から完全に脱皮した」と宣言している。この時期の代表作と言われる『古木』(1947年)は、悪徳地主の没落を通して、封建制の残存勢力、日本帝国主義の残存勢力を打破し、新たな民族国家の建設を謳う代表的な社会主義リアリズム劇である。
急速に社会主義に傾倒した咸世徳は、1947年後半に演劇仲間と共に北に渡り、李承晩大統領を米帝国主義の傀儡として批判した『大統領』(1949年)、済州島四・三事件を人民に対する反動的な大弾圧として描いた『山の人々』(1949年)などを発表した。だが、1950年に朝鮮戦争が勃発し人民軍が南下した際、従軍記者として同行し、手榴弾の爆発によって死亡したと伝えられている。
咸世徳は北に渡った社会主義作家という理由で、韓国内では研究・出版が禁止され、長らく評価されなかった。しかし1988年に越北作家たちに対する研究・出版が解禁され、劇団演友舞台が1991年に「韓国演劇の再発見シリーズ」と銘打ち『童僧』が上演されたのを機に、戯曲の完成度の高さに関心が高まった。特に『舞衣島紀行』は1999年6月、越北作家の戯曲として初めて国立劇団によって上演(金錫満=演出)された。      (石川樹里)

昔々フォーイフォイ

作=崔仁勳(チェ・イヌン)
翻訳=李應壽(イ・ウンス)

崔仁勳

1936年、咸鏡北道會寧生まれ。朝鮮戦争が勃発した50年に家族全員で越南。木浦高校からソウル大学法学部に入学するが4年で中退し、軍隊に入隊。軍服務中の59年に『自由文学』誌に『グレー倶楽部顛末記』を発表し文壇に登場。李承晩政権の倒れた60年に、それまでタブーとされていた南北分断問題を扱った長編『広場』を発表し脚光を浴びる。その後、『灰色人』、『九雲夢』、『小説家仇甫氏の一日』などの独歩的な作品を発表し、「戦後最大の作家」と評された。70年代後半以降は『昔々フォーイフォイ』(76)、『春が来れば、山に野に』(77)、『どんどん、楽浪どん』(78)、『月よ月よ、明るい月よ』(78)、『ハンスとグレーテル』(81)など、主に説話や伝説に題材をとった戯曲の創作に専念し、「劇詩人」とも称された。その後20年近く創作活動を中断していたが、長い沈黙を破って94年に自伝的小説『話題』を発表し、現在も小説家として活動している。2011年には第1回朴景利文学賞を受賞。ソウル芸術大学文芸創作学科名誉教授。

『昔々フォーイフォイ』解説
李應壽

この作品は、1976年の『世界の文学』創刊号に発表された。初演は、劇団「山河」が、ソウルのセシール劇場で、1976年11月5日から11日まで、第35回公演として上演した。当時としては珍しく1819名もの観客を集めたので、作者の崔仁勳(1936〜)には、翌年、韓国日報戯曲賞が授与された。
加えて、この作品は、韓国の全国に広く伝わる子供将軍説話の中で、平安北道のものを参照して書かれている。作者のドラマツルギーを検討するうえで貴重な資料なので、原話を、『平安北道道誌』から引用しておく。

「将帥を亡くした龍馬のいななき」
—博川「元帥峰・馬嘶岩」の故事—

昔々、博川の元帥峰の麓にあばら屋が一軒あった。ある日、この家のかみさんが玉のような男の子を産んだ。貧しいばかりではなく、近所に人家もなかったので、かみさんは自ら臍の緒を切り、お産の後の飯の仕度も自ら用意する有様であった。
お産の翌日のこと、かみさんが台所の仕事をしていると、部屋から赤ん坊の泣き声ではない、片言を話す声が聞こえてきた。かみさんは不思議に思って隙間から部屋を覗いてみた。ぎょっ! 生まれたばかりの子供が一人で壁をつたってよちよち歩きをしながら何かをしゃべっているではないか。かみさんはびっくりして部屋に飛び込み、子供を抱いて体のあちこちを調べてみた。そして再度驚いた。脇の下に翼が生えつつあるではないか。将帥である。
平凡な人間ではないことを悟った瞬間、上さんの脳裏には喜びより不安が先立った。万が一、役所にこのことが知られたら、家中皆殺しにあうのではないか。かみさんは考えたあげく、人に知れる前にこの子を殺そうと決心し、子供の腹の上に小豆袋をのせておいた。すぐ死ぬだろうと思っていた小豆袋の下の子供は、三日経っても死ななかった。小豆袋をもう一つのせて押えつけた。子供は堪えきれず、やがて息を止めた。
その日の夜から暫くの間、元帥峰の絶壁のうえから、ゆえなき馬のいななきが悲しげに聞こえてきて村人たちを驚かせた。これはほかならぬ将帥を亡くした龍馬の鳴き声であった。その後、村人たちはこの岩を馬嘶岩と名づけたと言われる。

 最後に、この作品は、両国の演劇史から考えるに、木下順二の一連の民話劇、なかでも『夕鶴』と類似していることが指摘できる。それは、説話から素材を取っている点、科白がいわば詩的言語でできている点などが、敗戦後の日本人の、そして韓国戦争(Korean War)後の韓国人のやりきれない気持ちにある種の郷愁を与え、心を癒す役割を果たしていたからである。