『激情万里』作家インタビュー
キム・ミョンゴン(金明坤)
芸術家として、文化行政の専門家として、幅広く活躍してきたキム・ミョンゴンさん。日本では1994年に公開されたパンソリ映画『風の丘を越えて〜西便制』で父親役を演じた俳優と言えば、「ああ!」と思われる方も多いのではないだろうか。今も現役で活躍する彼に、演劇との出会いから、韓国の伝統芸術を現代的に取り入れることを目標にした劇団アリランの旗揚げ、そして『激情万里』に込めた思いなどを聞いた。
演劇の道へ
とにかくものを書くのが好きで、文学者になりたかった。大学ではドイツ語教育を専攻して、ゲーテやシラーなどの古典戯曲を耽読しました。演劇を始めたのは大学の劇研に入ってから。大学2年の時、はじめて演出助手につきました。民主化デモへの弾圧を批判する内容で、当時は台本の事前検閲があったから、当然上演禁止。それじゃ許可なしでやろうということになって…。ところが公演当日、機動隊が押しかけてきて建物入口のシャッターを下ろし、劇研の顧問や幹部は警察に連行されてしまいました。数時間後、劇研の幹部たちが戻ってきて、みんなで建物の前の階段に座って飲み明かした。これが人生最初の演劇体験です。
大学3年生の時、劇研の部長になって、さらに演劇にのめりこみ、一生懸命やりすぎて体を壊してしまいました。でもその時、全羅道(チョンラド)の実家に戻って療養しながらパンソリを習いはじめた。ゲーテはファウストを書くためにドイツの神話や伝説、昔話などを研究したというでしょう。それなら僕は韓国の伝統を学んで、そこから再創作しよう、そう考えるきっかけになりました。
大学卒業後は小さな出版社に就職しました。その当時『根の深い木』という月刊誌に、失われつつある昔の職業や伝統文化の担い手たちを探して聞き書きするシリーズを連載していたんです。その取材でさまざまな芸人や職人に直接話を聞き、韓国の伝統について学ぶことができました。(訳注=このシリーズは、『アリラン峠の旅人たち』というタイトルで日本語の翻訳書が出ている。)ところが会社勤めがよっぽど合ってなかったんでしょうね、うつ病になっちゃった。それで出版社は辞めて、高校でドイツ語を教えながら教師劇団状況に入って芝居を始めました。その劇団は政治的なごたごたで、じきに解散してしまいましたが。
劇団アリランを旗揚げ
その後、本格的に演劇の世界に飛び込み、ハンドゥレや演友舞台など、民族劇(マダン劇)系列の劇団で伝統演戯を現代化する作業に取り組みました。そして1986年、ついに劇団アリランを旗揚げしたんです。翌年には民族劇フェスティバル「民族劇ハンマダン」も立ち上げました。全国で活動している民族劇団体が一堂に会し、一般の観客を対象に上演する初の試みです。
当時、民族劇は一般の「演劇界」から距離があり、演劇と見なされていませんでした。民族劇は学生運動や労働運動と連帯し、主に工場や労働争議の現場、教会などで上演されていましたから。でも民族劇は社会性や教育的な機能が強いだけで、やっぱり演劇なんです。それが演劇として認められないのはおかしい。しかし一方で民族劇には、政治性や啓蒙などを重視するあまり、芸術的側面が軽視されやすい面もある。だからこそ「演劇界」と繋がりを持ちながら民族劇の芸術性を高めていきたいと思いました。そういう思いがあって劇団アリランは韓国演劇協会に加入したんです。その時、演劇協会の会長からは「とうとう我々の側につくのか?」と言われたし、逆に民族劇の仲間たちからは「俺たちを裏切る気か?」なんて言われました。
『激情万里』をやろうと思ったのは、演劇界の中のそういう対立にもやもやを感じていたからです。そして、実はそれが日本の植民地時代から地続きではないかという疑問もありました。韓国は日本から解放された後、南北に分断されイデオロギーもまっぷたつに引き裂かれてしまったので、北と南では歴史の解釈がまったく違います。それは演劇史についても同じです。たとえば朝鮮の伝統的な広大(クァンデ=芸人)たちは学歴もない民衆だけど、彼らこそ歌、踊り、演技という総合的な芸術家だった。ところが日帝時代になって広大は蔑まれ迫害された。新派劇も同じです。逆に地主や財産家の息子たちが日本に留学して西洋の近代劇を学び、韓国に戻ってきて「これぞ演劇であり、芸術だ」と言って威張りはじめる。そういった歴史をもう一度とらえ直したかった。
『激情万里』とソウル演劇祭での論争
『激情万里』は1991年にソウル演劇祭の自由参加作に選ばれました。対立や葛藤を克服するという作品のテーマに合わせて、主役級のキャストは劇団員ではなく、演劇界から実力のある俳優を客演として招きました。劇団のメンバーからは文句も出ましたよ。ところが公演の間際になって、ソウル演劇祭の事務局から「共産主義を擁護するような内容が問題だから演劇祭の参加を取り消す」という連絡がきたんです。紆余曲折はありましたが、結局、演劇祭に参加できなくても定期公演として上演し、観客の目で直接判断してもらうために、公開討論会を開くことにしました。討論会に出てきた韓国演劇協会の会長は、「1930年代のプロレタリア演劇から北朝鮮の社会主義演劇を経て、今日の民族劇につながっていると主張する半面、現在主流になっている演劇界の基盤を作った演劇人たちを、まるで親日・親米の反動分子のように描写するとはけしからん」と言いました。僕はただ1920年代以降の韓国演劇史をとらえなおし、北に渡った作家など、これまで評価されてこなかった演劇人たちに光を当てたかっただけで、特定の人物を断罪するつもりはありません。
そんな状況でしたが、『激情万里』に対する観客の反応は良く、翌月に延長公演もしました。延長公演では僕が演出し、主人公のジョンミンも演じました。
この作品には1920年代から1950年代までのさまざまな台本が劇中劇として挿入されています。映像資料は残っていないので、1913年生まれの老俳優、高雪峰(コ・ソルボン)さんに、当時の演劇の様式や演技術、台詞の言い回しなどについて、いろいろ教えてもらいました。彼は一流俳優じゃなかったけど、1930年代から驚くほど多くの舞台に端役で出演して、昔の演劇にとても詳しかった。『激情万里』の劇中劇に出てくる『アリラン』にも端役で出演していたんですよ。あとは1928年生まれの申出(シン・チュル)さんという無声映画の活弁をやっていた方からも台詞術を教わりました。新派劇の劇中劇は日本からの影響を強調するために、歌舞伎的なメーキャップや演技を取り入れたりしました。
再演時の変化
劇団アリランの創立20周年記念公演として、2006年4月、大学路アルコ大劇場で『激情万里』を再演しました。初演から15年が経ち、政治や社会の状況がかなり変わっていたので、政治的なメッセージを前面に出すより、舞台作品としての完成度を高めようと判断しました。初演時には、演劇史を俯瞰する第三者の視点として解説者を置き、叙事的演劇の効果を狙いましたが、少し説明的になりすぎる面もあったので、再演時には舞台転換に歌を入れて、歌手を解説者の代わりにしました。僕は政治的な主張を観客に押し付けたり、難解な芸術性を強調したりするより、一般の観客が泣いたり笑ったりして楽しみながら、見た後に何か考えさせられる、そんな芸術を理想としています。言ってみれば、広大の精神ですね。
今後の予定
書きたい素材は30〜40くらい頭の中にあるので、たぶん死ぬまで困ることはないと思いますよ。(笑)これはひとつの夢、ライフワークですが、ドイツの『ニーベルングの指環』のように、韓国の神話や伝説をもとにした三部作を書きたいと思ってます。形式はオペラになるか、唱劇(訳注=パンソリを取り入れたオペラ)になるか…?とにかく音楽劇にしたいですね。僕はパンソリもやりますが、最近は声楽をやっていて、音楽的な要素は欠かせません。
最後に日本の観客に一言
『激情万里』は背景に日韓の歴史的な部分が描かれているので、日本の観客の反応が気になります。しかし韓国に限らず、どこの国でも起こりうる状況で、芸術家がどう生きるかという普遍的な問題を描いた作品だと思っています。客観的な目で見ていただけると嬉しいです。
(聞き手=石川樹里)