『椅子は悪くない』作家インタビュー
ソン・ウッキョン(宣旭炫)
現実社会を逞しく、したたかに生き抜く人間たちが巻き起こす、スリリングかつ愉快な珍騒動。ソン・ウッキョンが描き出す劇空間では、情にあふれた人間臭さと幻想の匂いが交錯し、思いもよらない展開が待ち受ける。劇作のみならず、俳優として映画やドラマでも活躍中。さらに韓国劇作家協会理事長を務めるなど多忙を極めながら、問いへの返答は素早く、丁寧。誠実であたたかい人柄がうかがえた。
劇作家であり、俳優としても活躍されています。この道に進んだ理由、また影響を受けた作家や作品について教えてください。
小学校では戦争ごっこをする時も私が台本を書き、遠足に行って友達と一緒に特技自慢をやる時も、私が短いコントを構成してやっていました。それを思うと、子供の頃から劇を組み立てて構成することが好きだったようです。演技は本能的にとても好きですね。他人の人生を生きる、その快感は一生手放せないです。でも私は自分の顔にも不満があるし、演技もそれほど上手くないと思っています。それで、どうにも物を書くほうに流れていったのかもしれません。でも、物語を作ることも私の本能です。おそらく死ぬまで私は物語を組み立てて、俳優たちが演じ、それを客席から見る楽しみを堪能するだろうと思います。
大学時代に文学や劇作を専攻したわけではなく、独学で始めました。劇作術の本と作家さんたちの戯曲集を読み、そして自ら演劇をやってその文法を学びました。それで同時代のいろんな劇作家先生の影響を一様に受けました。イ・ガンベク先生の寓意あふれる演劇的な面白さ、イ・マニ先生のセリフの味わい、オ・テソク先生の韓国的な演劇味、チェ・インフン先生の文学的な演劇味、ユン・デソン、パク・チョヨル、オ・テヨン、ユン・ジョビョン、イ・ヒョンファ…、そういった多くの先生たちの長所を少しずつ真似たいと思いました。
『椅子は悪くない』を書いたきっかけは?「小道具ひとつで全国を回れる芝居を書きたかった」と書かれた記事を読みましたが…。
20代では“何かになりたい”と考えるじゃないですか。30代になって、何かを“持ちたい”と考えていることを自覚したんですね。何かを所有したいと思う、その感情に集中して作品を書いてみたいと思うようになりました。何かを“持っている”とは、はたして何なのか。そこを掘り下げて調べたかった。ここに椅子一つを置いて、作った人(ムン・ソンミ)、売りたい人(ムン・ドクス)、欲しい人(カン・ミョンギュ)、それに反対する人(ソン・ジエ)…、こうして四人の人物が構成されたのです。
新人作家だった当初、主に20人以上が出てくる大劇場作品をたくさん書きました。大学時代の演劇グループは主に大劇場で公演をしていたので、演劇といえば人がたくさん出てくる大劇場作品だと自然に思っていました。演劇の街、ソウルの大学路に来てみたら大部分が小劇場です。そして皆、予算が少ないからか、いつも私に小さな作品を要求しました。結果、私もいつしか小さな小道具一つで、少ない出演者でできる演劇があるかな?と思うようになり、この『椅子は悪くない』を書くことになったんです。この作品を出してすぐに、大学路の劇団の代表たちに「ソン作家、とうとう大学路に適応したね」と言われましたね(笑)。
社会の現実を描いたようにも、ファンタジーのようにも、不条理劇のようにも読み取れる作品です。この作品で描きたかったこととは?
先にお話しましたが、所有の問題ですね。形式から抜け出し、私たちが資本主義社会で金を払い、何かを買うということ、そうして所有すること、それは何で、その本質は何だろうか…という問いを観客たちが抱いたらいいなと思います。今、私が生きているこの時代は、資本主義の悪しき特性が多く現れている時代です。所有欲はどんどん拡張され、それによって多くの傷と被害が起きます。私たちの所有欲求を振り返らなければいけません。私たちが何かを持つということは、誰かの犠牲のうえにあるのかもしれない。劇中では様々な事情を繰り返すたびに、誰かが被害者になります。すなわち、そうしたいろいろな地点を見せたかった。それでカン・ミョンギュはその事実を確認し、結局は放棄することになります。若干、宗教的な結論でもあるかと思います。
カン・ミョンギュは、なぜこんなにも椅子に執着したのでしょうか。そして、最後はなぜ椅子を諦めることができたのでしょうか。
韓国でもこの質問をたくさん受けました。椅子は実は…、人間が強く所有したがる何か、欲望の象徴というだけです。誰かにとっては帽子であり、カバンであり、靴である、そういうことです。私は作家だから主に座っている職業で、一番近くにある家具でもあるので、自然と椅子に執着したようです。実際に私の家にも、あっちこっちに椅子だけで8個以上あります。どうも椅子が好きなようです。
椅子を放棄したのは、結局、ほかの人々をすべて幸せにしつつ、自分が椅子を持つ方法はないのだな…という結論に至り、ならばいっそのこと椅子を放棄しようという、若干宗教的な選択をしたのです。他人を傷つけてまで、自らの欲望を満たせるでしょうか?
ムン・ソンミは、最後に椅子が戻ってきたことをどう受け止めたのでしょうか。
彼女に自覚が芽生えることを期待します。彼女は、自身の存在を世の中に認めてもらいたい欲望があります。椅子が誰かに愛されることが目標です。しかし、その椅子は結局自分のところへ戻って来てしまいました。まだ準備が整っていないようです。彼女は椅子をもっと一生懸命に、上手く作らなければいけません。この程度に作れば愛されるのでは?と思うことは傲慢であり、上手に作ればタダではなく自身の値打ちを授かることができると知ることも、社会を生きていく成熟した姿です。ムン・ソンミは身体は大人だけれど、精神はただ愛されたい赤ん坊の状態です。彼女が大人としてちゃんと成熟することを期待します。
クライマックスでの武侠の場面が痛快です。突然このように時代と空間を変化させた意図を教えてください。
この質問もたくさん受けました。前世か?という質問もありましたが、それは違います。この作品のあらすじを言うなら、椅子を手に入れるための主人公カン・ミョンギュの思考、幾多のシチュエーションを想像し、その選択の終わりまで行ってみる…といった話です。現実において、ああしたりこうしたりと試してみて全部ダメだったから、考えの果てに…、このような原始時代に戻って、「俺が刀を持ってすべてを切り払ってしまえば、この椅子を手に入れることができるのか?」とふと思いついたと。それで武侠シーンを作ることになりました。
今回のリーディング公演では、演出の解釈によりムン・ソンミを娘ではなく、息子に替えて上演することになりました。許可いただき、感謝します。率直なご意見をお聞かせください。
ムン・ソンミ役を男にすることは、初演から20余年に近い『椅子は悪くない』公演の歴史において初めてのことです。替えたいという演出家の言葉に少し驚き、戸惑いました。しかし、演出家の変更についての意見を読んで、納得することができました。そして鄭義信さんへの尊敬とさらなる信頼とともに、公演への期待を持つことにしました。
劇中の四人の人物はおそらく私の心のあちらこちらに隠れている考え、または本能の破片たちだと思います。劇中のムン・ソンミは…、私の若い日々、幼い芸術家として世の中に認められたかった、内気で愚かな自我だと思います。劇中のセリフのように、世の中の端っこだけでもつかみたかった、欲望の出発点に立つ夢多い幼い芸術家。しかし、自信満々には出られず、隠れていて、まだ実力も検証されていない…、臆病者であるだけでした。彼は実力を磨かねばならず、もう少し大人にならねばなりませんでした。自尊…、自分を愛するからこそ、努力して、耐えて、待つことができるのでしょう。大人になるということは、自分を愛することに慣れることかもしれません。
女ではない、男の姿でこの世に現れる“ムン・ソンミくん”に期待をかけてみます。
最後に現在のコロナ禍において、演劇人としてあらためて感じたことがあれば教えてください。
とても驚き、不安になりました。観客のいない演劇は未完成です。映像で代替しようという動きが多く見られますが、私は強く反対します。ウイルスを避けた安全な劇場を作ることが、よりよい代案と考えます。演劇は観客に出会い、お互いに影響を与え合って進んでいくものです。そうやって一編、一編、毎日違うものとして演劇は完成されていきます。
(聞き手=上野紀子)